生活基本情報3 国土編 地形2 水と暮らし

カンボジアらしさの原型 農村にある

カンボジアの原風景。水田に砂糖椰子。

国土編 地形2

カンボジアの国土の40%を占め、人口の85%を占める中央低地帯が所謂「カンボジアらしさ」という生活の原型をその風土から生み出している。

これがカンボジア人なのだ。20歳過ぎた女性も行楽に行くと子どものように遊ぶのだ。みな血縁関係の近所の者と連れ立っていくのが行楽である。

カンボジア人の9割弱を占めるクメール族がクメール語でスロック(田舎)という言葉で思い起す風景は水辺で涼む安らぎに満ちた世界である。プノンペンの見る豪壯な邸宅や持ち家でも、必ず敷地内や屋上付近に日本でいえば東屋のような四方を開け放った屋根だけの涼み小屋を設ける。それが無くては、彼らは心穏やかになれない、何か物足りなさを覚えるのだろう。そうした東屋で富裕層であれ、自宅に帰れば夕暮れから上半身裸でのんびりと過ごすのが何より安らぎの世界のなのだ。庶民は使い古しのベッド台や椅子を持ち出して休む。田舎で見る高床式住居の下にベット台の木組みを置き、そこで飲み食いしたり、休んでいる、日本の言えばお茶の間の姿なのだ。ああ、そうか。プノンペンの富裕層でも元をただせば、華人でもない者たちの大部分は内戦で運をつかんだ農民出自なんだということが解る。

クメール正月前になると若い男女がたわいもなく遊ぶ、近所には血縁関係の者が住む。近所だからと言って、全くの他人がはいれるものじゃない。正月前になると都市部でも農村でも夜毎、こうした遊ぶ若い男女たちがごく普通にみられる。それが幼いころから正月は楽しい記憶となる。

事実、クメール人の行楽地とは、「リゾートとは 涼み小屋なり カンボジア」と思わず言ってしまうのが、近年に観光省が謳うエコ・リゾートとは要するに水辺の涼み小屋なのである。経済成長の波が都市部に押し寄せて車での行楽が流行っ来たが、大部分のクメール人とっては車で出かけてみても涼み小屋での飲み食いと休憩がなければ、本当はちっとも楽しくない。楽しき気取っているのは外国帰りか、一部の欧米かぶれの余裕のある若者たちだけである。

渓谷の涼み小屋。水遊びは大好きなカンボジア人。行楽とはこうい所が大好き。キリロム高原。

 

中央部低地帯と水系 メコンの恵み

広大なトンレサップ湖の夕暮れ

カンボジアの平野は、断層陥没帯のトンレサップ盆地とメコン・デルタから成り立っている。トンレサップ盆地の最も低い地域が毎年面積を伸縮するトンレサップ湖が占める。クメール人の意識では国土はスロック・スラエ(直訳:水田地帯、「田舎、故郷」という意味)とスロック・チョムカー(直訳:畑作地帯)と二分され、スロック・スラエを私の田舎ろ意識する者には、スロック・チョムカーを見下す意識がある。これは、クメール族が高地クメールと呼ぶ先住民を見下し意識に似ている。水田農民こそモンスーン(季節風)・アジアの中心であるということか、日本でも昭和の初めころまで、水田農民が畑作農民を見下す風潮が残っており、稲作に特別な思い入れ=信仰意識が強かったのと同じである。北東部のモンドリキリやラタナキリは先住民が住民の多数派を占めるが、そこに水田を見ればクメール族の開拓民であることが解る。

 

カンボジアの平野部はトンレサップ湖・バサック水系とメコン水系に二分される。トンレサップ湖は東南アジア最大の湖で雨季にはメコン川からの水がプノンペンでバサック川の合流点(クメール語:チャトムック)から水が湖に向かって逆流し、湖の面積を拡大する。2000年頃まで湖の水域は乾季の最小面積の3倍になると言われていたが、メコン川の上流部の中国、ラオスのダム建設よって、近年にはトンレサップ湖に流れ込むメコン川の水量が減り、湖や2つの水系でも漁獲量が減ったり、氾濫を利用した水田が使えなくなる、ベトナムでのメコンデルタで海進が進むなど環境の変化が大きな問題となっており、メコン川流域国が加盟するメコン委員会が加盟国の利害調整を図っているが、国家間の利害そのものとなるためその調整を難しくしている。

トンレサップ湖は湖面積の大きさだけでなく、淡水魚の宝庫で生息種類数は世界一である。また、漁獲量は10kg/10㎢で世界一を誇った。だが近年、上記の問題によって年々漁獲量を減らしている。

 

 

 

 

 

 

トンレサップ湖岸の杭↑家屋の集落(コンポンプルック)コドンたちは幼いころから身に親しむ生活で巧みに小舟を操る。

トンレサップ湖岸の水没林。

*参照

メコンの氾濫原とトンレサップ湖

 

プノンペンではメコン・バサック川の水位は2000年頃まで最低1m~最高9mを過去70年間繰り返しているが、近年は最高水位が低くなっている。トンレサップ湖の湖面積が雨季に拡大するのを雨季の降雨のためと誤解する人が未だに多いが、事実は雨季の降雨以上にメコン川の流量に関係している。メコン川はチベット高原に発し、中国、ラオス、カンボジア、ベトナム領を流れ、南シナ海に入る。上流部の雪解け水が供給されるが重要で、メコン、トンレサップ湖・バサック水系の流域はその氾濫によって堆積する肥沃な粘土質土壌があるが、土は重く乾季には一般に耕作できない。南西部のバッタンバン州には粘土質泥炭土壌があり、大規模な耕作が可能でカンボジアでは珍しく耕地整理が行われている短冊形の農地が広がる。ここの米(オンコ―)が一番旨いと都市部の人々は言う。一方、観光客やカンボジアのことをよく知らない滞在者は乾季に田植えを見て二期作と誤解する人が多いが、カンボジアでは二期作は行われておらず、二期作に見えるのは河川の氾濫や天水による田での稲の早期、晩期の種類の違いに過ぎない。また、土壌の問題もあって日本のような二毛作は一般的少ない。

アンコール時代からほとんど変わっていない2頭の牛が引く犂耕。2党の牛と木組は古代インド伝来のものである。

カンボジアのプノンペンかシェムリアップにバンコクから飛行機で入るとタイの農村部ではたくさんの運河・水路と短冊形の田の拡がりを見るが、搭乗機が降下して見えるカンボジアの農村部は不規則な形の小さな農地と砲弾か爆弾跡のようなため池が無数に見える。実はこれがカンボジア平野部の農村の特徴的な姿でタイやベトナムとはその光景が決定的に違うの驚かされる。

右上がトンレサップ湖、大きく蛇行しながら湖に注ぐ川 バッタンバン地方

一方、トンレサップ湖が乾季に湖面を縮小し下流に向かって流れを早くする時期には流域各地の村が小さな川を堰き止め、魚を取る姿を見かける。見ると笊のなかには無数の小魚が山を成している。プノンペン周辺なら1月初め頃である。この時期の小魚がカンボジアの魚醤(ブロホック)となる。1979年1月初め、侵攻したベトナム軍に追われ、プノンペンのポルポト政権派が慌てて西に逃亡しようした時、家族たちに大反対された。「こんなに魚が獲れているのに何で逃げるの?」というエピソードがある。場所によって時期は異なるが、まさに魚は手掴みでとれるといった時期である。

クメール人の住居:高床式住居

 

クラチェには典型的な屋敷森の豊かな高床式農家が見られる。この農家は比較的豊かな農家である。逐0年以上の農家が残っているが、一般的には築20年も経てば朽ちてくる。多くの農家は屋根や壁の部分がニッパ椰子の葉で葺いたり、壁は編んだものを使い、貧しい農家になると木材の代わりに竹を使う。

クメール人の住居は一般に高床式住居(地面から2mほどの高さに床がある)、プノンペンでも中心部はコロニアル(植民地風、レンガ積みに漆喰塗り)の建物か華人(土間床の平屋、2階建ての中国風瓦造り)の建物であるが、かつてはその周辺部、華人との混在地には敷地に植物を植えた高床式住居が多く見られた。高床式住居には原則、台所は屋内にはない。あったとしても、別棟である。一般的は野外であるか、床下の空間で調理する。この高床式住居だが、雨季の洪水対策というより、かつて森で暮らしていた頃の生活を引き継いだものというのが一般的な説である。また、クメール族の最初の統一王朝「真臘(しんろう 漢文資料読み)」の王都であったサンボープレイクック遺跡(世界遺産)はちょうど森と低湿地の出会う場所であったと研究者たち言う。

カンボジアの国土と歴史的伸縮

カンボジアの地形は中央部低地帯によって西はタイ、東はデルタを通じてベトナムに開いている。この地形が、かつてアンコール王朝最盛期(10-13世紀)には東南アジア大陸部の中心に一大アンコール帝国を築け上げたが、一方で東西から他民族勢力の侵攻を受け易い。アンコール王朝の宿敵であったチャンパ王国(ベトナム中南部に栄えて貿易都市国家連合)はメコン川を遡ってアンコール地域に攻め上がったり、アンコール王朝を滅亡させてアユタヤ王朝は西から容易に侵攻した。アンコール王朝の滅亡以降、カンボジアの歴史は振るわず、西にタイ王朝やベトナムグエン朝のいずれかを宗主国として服属する形になっていった。現在のカンボジアが「巾着型」をしており、海岸線が隣国から狭められているのも歴史的にタイ・ベトナム両国からの浸食が激しかったことを物語っている。

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