風土編ー地形ー
カンボジアの地形は大陸部地殻(プレート)上の海底隆起の楯状地で断層によって陥没した北西から南東部への中央部低地帯と周囲の浸食丘陵や山地を擁する安定した大地である。活火山帯もなく地震等はほとんどない。また海岸部は、タイ湾に面しかつてほとんどがマングローブ樹林帯で小さな砂浜が散在する程度で津波の被害もほとんど起きていない。
- カンボジアの大地はかつての海底が隆起した楯状地であるため、風景は一般に単調で山地や丘陵・高原のほとんどは砂岩地形で薄い表土に覆われている。南東部のカンポット、ケップ州に石灰岩地形の山地が見られ、鍾乳洞が散在する。そのため薄い表土は一般に栄養度が少なく貧しい大地と言える。わずかにメコン水系とその豊富な水で逆流するトンレサップ湖・バサック水系の氾濫による肥沃土が流域にあり、デルタ地帯ほど豊かな肥沃土が堆積する。(一部バッタンバン地方には肥沃土があり、ここには大型農法の米作地帯がる。)
- カンボジアの国土は北西部から東南部に中央部低地帯が伸び東に開け、その周囲には丘陵や高原、山地帯が見られ「森の国」とも言われたが、国土の40%の中央低地帯を貫くトンレサップ湖・バサック水系とメコン水系の流域に人口の85%超が集住する。周囲の丘陵や高原地帯にはかつては先住民の高地クメール族が散在していたが、近年のクメール族の進出による開拓や盗伐によって急激に森が喪われている。わずかに南西部のカルヴァン山脈(カルダモン山系)、キリロム山系とそれに続くドムレイ山系は鬱蒼たる人跡未踏の熱帯樹林帯に覆われている。また東北部のモンドリキリやラタナキリの先住民が多数派を占める地域にも森が見られるが、焼畑等で急速に減っている。また、ここはベトナム戦争時のホーチミンルートがあっため、米軍の盲爆で森の生態系が大きく破壊された。
- 中央部低地帯はトンレサップ湖・バサック水系とメコン水系に別れ、現在の首都プノペン付近でいったんは合流し、そこから下流部に所謂メコンデルタ(三角州)を形成している。この中央部低地の河川流域に人口の約85%が集住しており、集住形態は内陸河川の港市(こうし)から「ブラ」という城砦都市に発展ー東南アジアの大陸部の歴史に共通するー都市部と農村部から成る。カンボジアの農村部を特徴づけるのは集落のほとんどが街村ー多くは道沿いに屋敷森に囲まれた農家が並ぶー形態になっているところである。そして道の多くはかつて自然堤防であるものがほとんどである。そして古くから水上交通が陸上交通より優位に立っていた。それが逆転するのはここ20年ほどである。
- 河川と街:カンボジアの州都のほとんどが河川の河岸か河口の港市から発展したもので、古代から20世紀終わりまでトンレサップ・バサック水系とメコン水系の水運が諸都市を網の目のように縦横に結び付けていた。
- カンボジアの国土は歴史的には中央部低地帯の東部デルタ地帯から開け、紀元後2世紀頃に扶南(プノン=山の意味、漢文資料名)という首長制国家が成立する(6世紀の王都はアンコールボレイ)。扶南の遺跡はプノンペンの南から東の海外線に至る地域に数多く見られ、丘陵上か鍾乳洞内にある遺跡でいずれも河川や古代運河の近くである。ベトナムのアンザン省にあるオケオ遺跡は扶南の外港でレンガ造りの集落跡があり、そこからは古代ローマ時代の金貨が発見されている。
- 現在にカンボジアの主要民族であるクメール族はタイ東北部のイーサン地方の出自でラオス・チャンバサック地方(ラオス南部)から5世紀ごろにメコン水系を南下し、6世紀後半には南の扶南を吸収・合併し7-8世紀に真臘(しんろう、漢文資料名)を成立させた。その王都が世界遺産:サンボープレイクック遺跡である。後に真臘は南の水真臘、北の陸真臘に分裂するが、かつて中国の風土を「南船北馬」と言ったが、カンボジアの場合は「南船北象」と言うのがふさわしい。
- 現在、カンボジアの国際港として認知されているのは、プノンペンの港とシハヌークビルの港であるが、20世紀半ばまでカンボジアの外港はカンポットであった。歴史上、カンポット市の西、現在国道4号線が通るピッチ峠から先には古代遺跡が全く存在しない。つまりプレアシシハヌーク州やコ・コン州の南西部海岸からクラヴァン(カルダモン)・キリロム・ボーコール山系の一帯は20世紀半ばまで人跡未踏地が大部分を占めていた。わずかに先住民(高地クメール人)が入り込んだ跡があるが、たかだか100年である。
- カンボジア南西部は長く未開発地域で海岸線がマングローブ樹林に覆われ、港もなく。19世紀後半ー20世紀後半のフランス統治時代の外港といえば、カンポットであった。アンコールワット再発見の偉業で知られるアンリ・ムオもバンコクから船でカンポットに渡り、そこから小河川を通じて当時の王都ウドンに到り、さらにバサック・トンレサップ湖を遡ってアンコールワットを見出したのが19世紀前半である。おそらくカンボジア南西部はマラリアの猖獗する密林地帯であったからであろう。シハヌークビルが外港として脚光を浴びるのは、1953年の独立後であった。