これで実質決まり フンセン首相の後継者はフンマネ氏

既に12月2日にカンボジアのフンセン首相が公表した「フンセン首相 息子フンマネの首相後継を支持と言明ー但し選挙でー」という選挙というタガは一掃された。これで実質決まりという事実上の「後継者 フンマネ氏」となる。当然、これからはカンボジア国内メディアの扱いが変わって来る。フンセン首相の2日の声明以来、実質No.2の内務大臣(軍警察や各州統治機構を管轄)がいち早く支持を表明し、その後政権党幹部の指示合戦が始まったが一連の儀式は終わった。日本の大手メディアにも2日以来、「フンセン首相、息子を後継者に」といった見出しが躍っていた。

カンボジア政権党(実質:一党独裁)常任委員会の委員であり、カンボジア人民党の中央青年委員会の委員長であるフン・マネ氏(メディアは閣下の呼称となった!)は、政権党=人民党の中央委員会によって全会一致で将来の首相に選出された、とある。このニュースは、24日の正午にAKP /情報省によって発表された。この情報省というのがミソで、情報省の統括はフンマネ氏である。

「首相の将来のポストのためのフン・マネ中将の立候補は、今朝の党本部でのCPPの第5回委任中央委員会の第43回会議中に、与党カンボジア人民党(CPP)によって承認された。」

Khmer Timesがいち早く伝えたところに同紙の政府広報を一手に引く受けているメディアとして面目躍如のところがある。

「フン・マネ中将は、2018年からカンボジア王国軍の副司令官であり、カンボジア陸軍の司令官です。フン・マネ中将は、1977年10月20日、カンボジアのクメール・ルージュ統治時代に、カンポンチャム州(現在のトボンクムン州)のメモット郡のスマール村で生まれました。彼はPich Chanmonyと結婚し2人の娘と1人の息子がいる1951年に設立されたCPP(カンボジア人民党、1951年の成立とされるクメール共産党である。この党から内部の権力闘争を勝ち抜いたのがポル・ポト派と今では呼ばれているグループ、現在の人民党の古幹部はポル・ポト派政権時代に粛清対象となりベトナムへ逃げ込んだヘンサムリン派の人々である。当初はベトナムの肝いりでつくられた組織を前身としている組織である。ーwikipedia参照ー)カンボジア人民党、1979年(ポル・ポト政権の崩壊)以来、カンボジアの与党政党です。」

と同紙は情報省の追加発表をそのままに現在の肩書から個人情報まで付け加えている。

党中央員会の決定は党の代議員大会の承認を形式上必要とされているが、中央員会の決定が否決されることは事実上、あり得ない(ーソ連や中国などの社会主義国ー)。

*名称はともあれレーニン主義的な共産党が標榜する「民主集中制」という党組織のシステムは少数が多数に従うを原則にそれを極端化して、組織決定された後に少数派の意見の公表は分派活動と決めつけられるーこの極端化のシステムモデルはレーニン自体がロシア革命直後の戦時体制のなかで「ためらいがちに」提案した一時措置であったが、後にスターリン体制で強化・永続されそれがレーニン主義として教条となったものである。それ故に上部組織の決定に下部組織は事実上「異論」が許されない。かつてのソ連、ソ連支配下の東欧、アジアでは中国、北朝鮮、ベトナム、キューバも共産党一党支配であり、異論が表面化するならば、それは非合法・地下活動からである。一党独裁でも国によって強権化支配の違いはあるが、「民主集中制」を原則としていることに変わりはない。日本でも共産党が他党から攻撃されるのは、この「民主集中制」という原則を放棄していなが故に起こっている。現在、日本の共産党は議会制民主主義を擁護するということを表明しているが、いったん権力の座につけば他の共産主義の党の権力維持方法をとるのではないか、と攻撃されている。

掲載写真:Khmer Timesより。

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