とっておきのプノンペン3 街のランドマーク:独立記念塔とワットプノン

プノンペン都心部のランドマークとして独立記念塔とワットプノンは欠かせない景観、ワットプノンはプノンペンの発祥地、独立記念塔は復興の象徴である。

現在の本堂と参道階段の姿。階段の手すりや立像も派手派手でちょっと驚く。ここ20年の建て替え寺院はコンクリート製でそのセンスたるやこれが栄光のアンコール王朝の末裔の千sなのだろうか、驚てしまう。かつて古色を醸し出していた木造寺院は次々と消えていった。

 

ワットプノンの本堂とストゥーパ(仏塔)                              本堂は東が正面。本堂正面 (東向き)、古代の遺跡以来一般的に寺院の正面は東向き。アンコールワットだけが特異に西向きである。王の墳墓寺院だったという説がある。

ワットプノン

19世紀の半ば、アンコールワットの再発見者の名で知られるアンリムオの旅行記を読むに彼はタイから海を通ってコンポンバイ河口のカンポットの集落に入った。当時のカンポットは、小さな港市で小さな集落に過ぎない。カンポットが港して発展するのはフランス統治時代からで、シハヌークビルが港となるのは独立後からである。ムオがコンポンバイ川を遡り、小河川や運河を通りバサック川出た頃、プノンペンのメコン、バサック川の合流点では河イルカやペリカンが目撃されている。現在のプノンペン辺りはバサック川の自然堤防の微高地とその背後は広大な氾濫原でわずかに小さな丘が樹木に覆われていた。当時からすれば水運に従事する船乗りたちにはよい目印だったに違いない。

本堂正面(東向き)、古代の遺跡以来正面は東。アンコールワットだけが特異に西向きである。王の墳墓寺院だったという説がある。

カンボジア最古の王国と言われる扶南(ふなんー漢文資料名ー2~6世紀)の王が山の王と呼ばれていたように古代から人々は低湿地に目立つ山を神聖視する信仰があった。ならば、見渡すかぎりの湿地帯で川沿いの小丘(プノン)は人々にとって古くからの聖山に違いない。伝説よれば、ペン婦人という高貴なお方がこの小丘で小さな仏像を見つけ、寺院を建立したという(1372年)。どこか東京・浅草寺の由来に似ている。古くから聖山ならば、そこに伝説は自ずと生まれる。寺院建立起源が14世紀となるが、当時のカンボジアはヒンドゥ―教(古代インドから多神教)であったから、実際に寺院が建立されたのは早くても16世紀以降であろう。その時は南伝仏教である。プノンペンの名が歴史に登場するのは17世紀の大航海時代である。既に小丘(プノン)に寺があったとらしいがそこから南に直線250mにバッサク川に注ぐ川岸で、おそらく河岸に内陸水路を利用したちっちゃな市、集落が立地した程度である。そこに中国商人と貿易覇権を争っていたポルトガル人が進出した。日本人も住んでいたようである。日本語ガイドブックによると、丘の上にあるストゥーパ(仏塔)はポニャーヤット王(在位1421年~?)ためのもので、現在の本堂のストゥーパ(仏塔)にはポニャー王の遺灰が納められている。この王はタイ(シャム)のアユタヤ王朝の圧迫受け、アンコール地域を放棄しこの地に王都を移したというが、寺の起原も仏塔も遺灰も歴史的事実というより伝説であろう。

昔話と伝説の違い、前者が「昔々、あるところに…」(時間、空間の不特定)といったものだが、伝染はそれを固く信じている者もいるという違いであるというー柳田国男説ー。アンコール王朝以前の歴史は碑の古クメール文字の解読と遺跡、そして近年の考古資料によって明らかにされてきているが、14世紀後半から19世紀までは文字資料はほとんどなく、よくわかっていないというのが真実に近く、王の実在も19世紀の王家が作った年代記に拠るに過ぎない。はっきりしていることは、カンボジアに南伝仏教が伝わって来るのは早くても16世紀、そして19世紀半ば、すぐに近くのバサック川を遡って当時の王都ウドンに向かったムオの記録には寺も仏塔も出てこない。それにストゥーパ(仏塔)の形は、タイの寺院で見る形で、王都ウドンの山の上の仏塔と似ている。19世紀末以前の仏塔とは思えない。

現在の本堂やナーガの手すりは2005年以降のもので、徐々に本堂の改築や整備が進められて現在に至っている。改装以前の本堂内は薄暗く、かび臭い湿気と線香の匂いがむんむんとしており、それが内部を古色に満ちたものにしていたが、本堂も内部の仏像も100年も経っていないであろう。仏塔の南にペン婦人を祀った祠があるが、像も祠も古いものではない。だが、わずかな伝説でもカンボジア人には誇りであり、心のよりどころであろう。そして懐かしい森も残っている。

現在の本堂内部。2000年代初めに参観した時は内部は土間で薄暗かった。驚くほど、改装後、雰囲気が変わった。

フランス統治時代はフランス式中等教育(リセ:中高一貫)で、ごくごく選ばれた者たちのもので、歴史教育そのものがフランス歴史教育、フランスは統治政策として端から初等教育は無視していた。独立(1953年)後に初等教育が始まるが、穏やかな時代は10年ほどでその後は内戦である。本当の意味で初等教育が全国規模になるのは2000年以降である。それに2000年代初め頃、歴史教育の教科書もなっかったのであるから仕方がない。

ワットプノンの本堂内。このけばけばしさと奇怪な像たち。信じがたいことだが、ここ20年の改築、新築の寺院の内部は似たようなもの。これがカンボジアにとっては尊いという美意識である。

プノンペンは2005年頃まで街の端から端まで東西南北、バイクで30分以内であった。その周囲は水田か荒れ地、湖沼そして集落の屋敷森という姿だった。プノンペンに住むとよく解るが、実に公園の少ない都市であり、散策もできない街である。公園で散策できるのは、後に触れる独立記念塔から真っすぐ東の公園と、すぐ隣にある王宮までの間のフンセン公園(ベトナム・カンボジア友好記念碑)、それと王宮前のリバーサイド、そしてワットプノンである。なかでも地元民の憩いの場はワットプノンからリバーサイドである。他の公園は名ばかりで散策する人が少ない。美観だけで樹木が少ないから直射日光に晒され、日焼けは必定である。夕涼みに川面の風に当てられるリバーサイト、そしてワットプノンだけはプノンペン唯一の小さな森がある。ここだけは時間を割いても車を降りて地元の人たちと混じって憩いたい。もうなくなって何年になるのだろうか、サンボ―という名のアジア象がいて名物であった。飼育員に引かれて象に乗る子どもたちの笑い声の聞こえる森であった。今でも小さな森だがプノンペンには貴重な森、野生の猿が住みついて、時に大型の熱帯鳥;サイチョウが舞うという。

ノンペンの朝:かうて毎朝、王宮前を通ってワットプノンに出勤する人気の象:サンボ―に姿を見かけた

*参観:7:30~18:30  料金:1$。18時以降は公園自体に入るのを避けたほう良い。治安が悪い。

独立記念塔

背景に建物が写るようになったのは、ここ10年のことである。

独立記念塔はワットプノンからノロドム通りを南下するシハヌーク通りの交差点にある。独立記念塔もワットプノンもロータリーとなっている。都市にロータリーが多くあれば、英仏などの西洋諸国の植民地時代の都市づくりの特徴である。バンコク市街にもロータリーはあるが、数は少ない。独立後もフランス式は都市のロータリーは残り、そのロータリーの中心に記念物がある。プノンペンの独立記念塔はもちろん、バッタンバンの大きな神象、カンポットの巨大なドリアンや塩汲み像など。ミャンマーなどは、ロータリーに時計塔が目立つ。

カンボジアが独立したのが1953年11月9日、当時のシハヌーク国王が建国の意気を溢れていた時期を代表する建造物として独立記念塔はカンボジア人建築家のデザインによって1958年に建てられた。建築家は王家に近い方で、フランス留学帰りの新進の建築家で独立記念塔のデザインは伝統クメール様式を取り入れながらも堂々たる近代建築である。この方のデザインは独立後のプノンペンを代表する建物のデザインとして残っている。同じ建築家のデザインはプノンペンに今でも現役で使われており、その代表作がワットプノンの東北部の旧迎賓館(現開発評議会の建物)やチャトムックシアター、王立プノンペン大学などで見られる。当時として斬新なデザインで機能性を兼ね備えた近代建築である。5年ほど前まで、この方が存命であるとの話を聞いていたが、内戦期は亡命していのだろうか。定かでない。独立期のカンボジアの高みを代表する建築家であった。

今でこそ周囲に高層ビルが目立ち、ランドマークとしての地位は下がっているが、2010年頃まで周囲に独立記念塔を超える高さの建物はなく、記念塔からワットプノンまでのノロドム通りは官庁や大使館が立地しフンセン首相宅のような瀟洒なコロニアル建築が立ち並んでおり、ノロドム通りから独立記念塔を見るに堂々と聳え立ち他を圧倒していた。まさに独立の意気ここあり、といった清新な雰囲気を醸し出し、絵になる光景が拡がっていた。

現在、記念塔の中は立ち入り禁止で車窓からか、記念塔東に延びる芝生の公園からシハヌーク国王記念像とともに鑑賞できるようになっている。観光バスが公園横の道に停まり、観光客がインスタ映えにと撮影が終われば暑さから足早に戻る姿が見られる。

毎年、この記念塔で「独立記念日の式典」が行われる。

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