とっておきのプノンペン6 悠久のメコンを眺め 亡きジャーナリストを偲ぶ

筆者が初めてカンボジアに入ったのは1998年8月、初めての海外旅行でタイへ入った。たまたま宿でその年に初めてバンコクからシェムリアップ便が飛んだことを知り、シェムリアップに向かった。その前の月、選挙があったが首都プノンペンでは小競り合いが死傷者が出ていた。その前年1997年、第1党のフンシンペック党(王党派)と第2党の人民党の権力争いによるプノンペンでの武力衝突が起こっている。その時、フンシンペック党の軍幹部が多く殺害され、同党の関係者の多くがタイへ逃れた。この政変は米国を初め多くの国々が危惧を抱き、国連も動いて98年の選挙になった。こんな状況だからプノンペンは危ない、と言われた。

1997年の武力衝突。現政権党である人民党と当時第1党フンシンペック党(王党派)武力衝突、後者の軍幹部の多くが殺害され、政治家はタイへ亡命。翌年の1998年の選挙で人民党が第1党になる。

翌日からレンタルバイクでプノンペンのあちこちを見て回った。本サイトで紹介したところは2日で済んだ。当時のプノンペンのモニヴォン通りなど時間帯によるが、バイクの洪水で車がその中を泳いでいる感があった。その他の大通りは空いていた。市街地は端から端までバイクで30分で人家の並びが途絶え、田んぼや湿地の荒れ地になる。どこの見学地も外国から旅人は少ない。日本人を見かけることもなかった。

そんななか少ない外国人の旅人の溜り場はリバーサイドのFCCカフェや数件カフェか、レストランだった。欧米系のバックパッカーや一人旅は一様にガイドブック「ロンリープラネット」を持っていた。日本の「地球の歩き方」はそれを模したものだが、厚さや内容の深さが格段に違う。また「地球の歩き方」のカンボジア編は他の国と比べて薄く、アンコール遺跡群の解説で1/3以上占めていた。後にロンリープラネットの日本語版(ベトナム編)を読んだが、実によく調べてあり、それぞれの項目の歴史的背景など細かな字でぎっしりと書いてある*。そして内容のレベルが高い。日本のガイドブックなぞ足元に及ばない。だから、彼らはプノンペンならFCCカフェは一度は寄るのだ。そこが彼らの聖地のようなところだった。

*残念ながら、「ロンリープラネット」(カンボジア版)の日本語訳は出ていない。

FCCカフェ 内戦期のジャーナりストや報道カメラマンの溜り場

FCC Phnom Penh 建物の2階、3階が眺望が良い。

1970-75年、ベトナム戦争の波及でカンボジアも激動の現代史に巻き込まれた。当時カンボジア国防相ロン・ノル ( 1913年 - 1985年、華人系カンボジア人)が1970年3月18日に中国北京訪問中のノロドム・シハヌーク国家元首の政権をクーデターで倒した。それ以前、中立政策を唱えながら場当たり的な外交政策や気まぐれな独裁のシハヌーク国王に対し、支配エリートたちには憤懣が燻(くすぶ)っていた。それがクデターにつながり、当時の副首相だったシハヌークの従兄弟:シリク・マタク親王の強い意志によるものとされている。

クーデター後、米国は反シハヌークを訴えるビラを撒き、ロン・ノル政権を支持した。このクーデターによって北ベトナム軍が公然とカンボジアに姿を現し、それを理由にロンノル政権は反ベトナムを扇動、在カンボジアベトナム人への虐殺も起きた。その一方、南ベトナム軍と米軍が北ベトナム軍、南ベトナム解放戦線を追ってカンボジアに進攻した。ここにベトナム戦争はカンボジア全土を巻き込み、内戦は激化した。だが、これは米国の敗色を濃くし、米軍の撤退に向けて始めた和平交渉を有利にするため秘密のカンボジア作戦で盲爆撃を行っている。その盲爆撃は、アンコール遺跡群のベンメリア遺跡や第2の世界遺産となったサンボ―プレイクック遺跡にも及び、両遺跡とも当時の爆撃跡が今も生々しく残っている。

カンボジアの内戦、米軍の爆撃で疲弊していくカンボジアの姿を伝えようと世界各国の報道記者や写真家が集まり、特に報道写真家による戦争の生なおしさが世界に伝えられた。ベトナム、カンボジア戦争はTVで見る「お茶間の戦争」と化した。

各国から集まった報道写真家は通信社や新聞社の社員もいたが、多くはフリーであった。夕方になると戦場帰りの彼らが集まり、談論し情報交換したのがここFCCカフェである。そしてFCCは戦後、それを売りにしたカフェである。

FCCカフェの3階

FCC入口1階から2,3階への階段の左右の壁や2階の喫茶室、3階のプールバーの壁には、そうした当時のフリー報道写真家の作品が掲示されていた。ここは2階の窓際の席からビールを飲みながら悠久のメコンを眺め、亡きジャーナリストたちを日がな過ごす人が集まるところであった。2010年頃までそうした外国人の姿を多く見た。

激動のカンボジア現代史を追想するかのような欧米の外国人客で賑わっていたFCCだが、2010年代に内部にホテルが造られたりすると「エキゾチックなコロニアル(古き良き植民地時代の懐古趣味:ノスタルジー)」が売りになり、欧米の流行に憧れるクメールの若者も足を運ぶごく普通のカフェになり、写真も掲示内容も随分変わってしまった。

ユネスコ・カンボジア本部。近年修復され最も美しいコロニアル建築。FCCの裏手にあたる通り沿い。

そして今、プノンペン随一のメコン、バサックの眺望を誇ったこのカフェも周囲のコロニアル建築の解体が進み、さらに周囲が高層化して屋上にSKY BARができると、その人気は衰えてしまったようだ。

だが、カンボジアの現代史には無縁でも、悠久のメコンの流れを身近に感じたいならFCCは外せない場所である。

場所

戦場の仲間たちが建てた「記憶」慰霊碑

カンボジアの激動の現代史に関心のあるものなら、FCCカフェに行く前にここ「記憶」と名付けられた石碑に立ち寄って見たい。場所はラッフルズ・ホテル前の芝生公園を横切る道端にある。ここ5年ほど前、かつてのFCCカフェで語り、飲ん変わしたジャーナリストたちが、戦火やクメ―ルルージュ(ポルポト派の前身)によって亡くなった報道仲間を偲び、寄金で建立した「記憶」という名の慰霊記念碑である。この慰霊碑には眼を凝らせば日本人の名が5人、その名前、国籍JAPと刻まれている。そのなかにはピューリッツァー賞に輝いた報道写真家:沢田教一(1936年ー1970年没)や「地雷を踏んだらサヨナラ」という手記で知られる一ノ瀬泰三(1947ー1973年26歳没)の名前も認められる。他の3人の日本人たちも仲間たちは記憶している。

澤田恭一氏と受賞作。ーWikipediaよりー

場所

ラッフルズ・ホテル・ロイヤルの東側の道を南に芝生の緑地帯道端西側にある。

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