とっておきのプノンペン4 国立博物館ー古代カンボジアの至宝が一堂にー

フランス人が古代美術品を奪い、フランス人がクメール文化遺産を守った

プノンペンで最も美しい建物と言えば、ここ国立博物館。伝統寺院様式を取り入れた凝クメール様式の近代建築、壁に塗られた赤紫はフランスのオリエンタリズム(東洋趣味)象徴する色である。切妻の屋根を重ねる工法はタイの寺院建築に似ているが、緩やかカーブを描き、屋根飾り邪神のモチーフはクメール様式を模したものでそのせり上がる曲線が優美である。また切り妻の破風の部分には古代インドの神々を東洋的な文様と共に描きだす精緻な意匠の木彫が美しく、近代建築に温かみを与えている。国の文化の象徴でもある博物館として小さいながらも気品のある建物で訪れ者を惹きつける。

国立博物館 屋根の飾りの曲線が優美である。切妻の破風には神像と独特な文様の木彫が施されている、

この博物館の源は、フランス統治時代に20世紀前半に遡る。植民地時代、貴重なクメール文化財の散逸を惜しんだフランス人画家:ジョルジュ・グロリエは在カンボジアフランス人や植民地行政当局を説得し、ここに美術館と美術学校を建てた。貴重な彫像や装飾品がカンボジア全土から集められ、守られた。グロリエの子息のベルナール・フィリップ・グロリエは最後のアンコール遺跡保存館であり、バライ(聖地)による田越し灌漑を基盤とする「アンコール水利文明論」を世に問うた人である。1960年代後半、カンボジアの第1次内戦が激化し、アンコール遺跡群はクメールルージュ(カンボジア共産党)の支配地域だったが、ベルナール・グロリエ率いるアンコール遺跡保存チームは政府軍支配地域のシェムリアップの街にある宿舎から毎日、前線を横切って遺跡群に通っていたという。その当時はクメールルージュも彼らに手を出さなかったという*。

フランス行政当局や在カンボジア・フランス人からの寄金から建てられた美術館は後にプノンペン国立博物館になり、その背後にある古美術の保存・修復職人の育成を目的とした美術学校は後に王立プノンペン大学の芸術学部美術科の校舎になっている。

クメール古代遺跡は、今のタイ領やベトナム領に数多くある。カンボジア国内でも確認された古代寺院遺跡は、4000を超えると言われている。そうした古代遺跡の調査、発掘はほぼ全てフランス極東学院の手によるもので、その研究成果は日本のアンコール学の先駆者:石澤良昭氏(1937年ー、第13代上智大学学長、文化庁文化審議会会長を務めた)の研究に多大な貢献をしている。カンボジア全土の遺跡の分布地図や主な遺跡の発掘調査に基づく寺院遺跡の伽藍配置図等も同学院の手になるものである。また、アンコール北方のクーレン山(アンコール王朝の発祥地)も一人のフランス人研究者が1年間、山中に暮らし密林に埋もれた遺跡の調査を尽くし、詳細な地形図に基ずく地図を残している。当時のダムや運河まで描かれている地図には驚嘆を禁じ得ない。

*極東学院:フランス国民教育・青少年省の管轄下にある科学的、文化的、専門的な公共研究機関である。東南アジア、東アジア、南アジア、つまり極東からインドにかけた諸文明研究を使命とする。当初インドシナに設立され、フランス東洋学の伝統を継承する組織である。EFEOと略称する。パリに所在するPSL研究大学の機関である。1968年以来、パリ16区シャイヨ宮傍らのウィルソン大統領大通り  22番地の「アジア館(フランス語:Maison de l'Asie)」に本部を置き、京都はじめポンディシェリなどアジア各地に研究センターや支所を配置。人類学・考古学・建築学・歴史学・美術史・言語学・哲学・碑文研究など東洋学専門家約40名が所属する。1898年仏領インドシナ総督ポール・ドゥメールの提唱に拠ってサイゴンに設立されたインドシナ考古調査団を前身とし、1900年フランス極東学院と改称、1901年ハノイに移転した。インドシナ総督府の直属機関として大きな権限をもった。当初は図書館及び博物館として機能したが、1907年以降カンボジアアンコールワット修復保全の公共事業も担当した。日本軍の仏印進駐期間も存続していたが、1957年フランスがインドシナから撤退したためハノイを離れ、1972年にはカンボジア情勢の混乱によってアンコールワットからも離れた。この1972年に撤退した最後の極東学院所属のアンコール遺跡保存官こそ上述のベルナール・フィリップ・グロリエ氏である。なお、日本軍の仏印進駐(1940ー1945年、1941年の南部仏印進駐で日本軍がカンボジアに進駐。)の時、フランスとの友好という名で文化財の交換が行われ、その時プノンペンの博物館から寄贈されたものが東京国立博物館に所蔵され、常設展で見ることができる。ーWikipediaに記述抜粋、加筆―

国立博物館の展示 アンコール王朝前期の展示、背後の壁上にバンテアイスレイ寺院の楼門破風の浮彫が見える。

世界遺産:アンコール遺跡群の見学はここ博物館で終わる

シェムリアップの街を玄関口とする世界遺産:アンコール遺跡群だが、そこだけを回ってみても、クメール古代文明の神髄に触れるのは一面的でこの博物館所蔵品を見ては初めてその全貌と神髄に触れることになると言っても大袈裟ではない。見る人が見ればその芸術性の高さ、文化の普遍性、価値に高みに目くるめくような感動に囚われるだろう。思わず立ち尽くし、身が震えるような感動に包まれたと語る日本人が何人もいる。それほどの逸品ぞろい、他の国なら第1級品の所蔵として館中央に置かれるような古代遺跡の祠堂入口の眉廂が無造作に屋外に並べられている。地下にも鑑賞者の眼に触れない優品が数多く眠っているという。

①ガルーダ像(ビシュヌ神の乗る怪鳥、日本では烏天狗で知られる)、10世紀後半、コーケーのプラサット・トム遺跡。プララサット遺跡正門の楼門前の左右に置かれていたもの。ルーブル美術館には玄関正面にサモトラケのニケ像があるが、博物館入口正面に置かれたこの像は堂々たる体躯で参観者の眼を驚かす見事な像である。羽、胸と腕の彫りが王都コーケー期の特徴。

ここ博物館には古代クメール芸術の至宝ともいうべき逸品が所狭しと陳列されている。博物館の正面玄関を入るや堂々たるガルーダ像(コーケー遺跡出土)に迎えられる。鑑賞ルートは向かって左側から始まる。ここには日本の博物館でも国宝*に当たる第1級品がごく身近に鑑賞できる。

日本の国宝:戦前の方が国宝の数は多かった。これは、学生時代に日本の美術史の泰斗(たいと)である方に直接聞いた話であるが、「戦後、国宝の基準が厳しくなり戦前の国宝は国宝と重要文化財に分けられた。国宝とは基準は色々あるが、要は世界の有名博物館や美術館に出しても超一級として扱われるものなんだよ。」という。プノンペンの国立博物館の所蔵にはそうした古代クメール民族の精華ともいうべきものが詰まっている。これに次ぐ所蔵はフランスのギメ美術館以外にない、と言われている。

下部に「鑑賞の手引き」の記述があるが、順路にそって一巡すれば、ほぼ2000年のカンボジア美術史が解るようになっている。最も古い時代の遺物は順路の終わり頃に現れる。ひと際大きな「胴鼓」が眼に入る。紀元前後に東南アジア大陸部に拡がったドンソン文化(ベトナム北部のドンソンで同型の出土品から文化名が生まれた)を代表するもので、時代から言えば、先住のモン・クメール族の文化(所謂高地クメール族はその末裔、インドシナ半島から島しょ地域に拡がった民族)である。胴鼓には鳥や船など具象形から幾何学文様が見られ、白鳥となった倭建命(ヤマトタケル)の神話につながる精霊信仰と考えられている。銅器の制作は日本の歴史より早い、北方中国の青銅器文明が及んだものであろう。

カンボジアの地、最初の国家:扶南

そして圧巻なのは、扶南(ふなん:漢文史料)から真臘(しんろう:漢文史料)、アンコール王朝期に到る神像や仏像の彫刻である。扶南は2~6世紀の海洋国家で港の遺跡からはローマ時代の金貨も出土している*。王都はバープノン(プレイベン州)、アンコールボレイ(タケオ州)であるが、寺院遺跡として現在まで外観が残っているの6世紀からであるが、5-6世紀の神像が出土している。それらの神像は古代インドのグプタ朝美術の影響を受けているという。が、その堂々たる体躯や静謐さを見せる格調は優に古代エジプト、メソポタミアからエーゲ、ギリシア初期の像を見るが如くであり、天を支える像なぞ、ギリシア神話の神:アトラスにつながる普遍性を獲得している。ここにも古拙の微笑み(アルカイマックス)を見せる像がある。(代表写真①)

現在ベトナム領のオケオ遺跡から金貨や外港としてレンガ造りの家屋が出土、背後の小山(パテ山)の麓にはアンコール期の古代寺院遺跡の遺物もある。その跡にベトナム仏教寺院が建てられている。

①ヒンドゥ三神像。プノン・ダ遺跡。扶南時代:6-7世紀。 扶南時代の最高傑作と称せられる彫像で像の大きさ、その堂々たる体躯、静謐さのなかに冒し難い威厳を称え、古代エジプと彫刻に通じる印象に通じる。中央のビシュヌ神は高さ2.78m、向かって右にラーマ神、左にバラ・ラーマ神を置く。

クメール族最初の統一王朝:真臘(チェンラ王国)

静謐な像に血が通ったかに見える造形は扶南時代後期からの像に見られる。この時期(6世紀)、現代のクメール民族につながるクメール族がラオス南部から移住するとともに勢力をメコン川を通じて南下させる。そのため、王都は南のアンコールボレイ(環濠都市)に遷都する。やがてクメール族は扶南領域の侵入し、その勢力が王家を含めて扶南を吸収し、7世紀に真臘(漢文史料、クメール名チェンラ)王国としてクメール族初の統一王朝が成立する。王都は、カンボジア第3の世界遺産:サンボープレイクックである。ここから内陸水運に頼りながら海洋性国家が内陸国家に変質を見せる。経済的にも貿易よりも稲作農業が優位を占め、現在につながるクメール族型の生活・文化が始まる。これを現在、民族の伝統と称するものの発祥である。それは基礎的には稲作農業であり、水運も内陸水運に偏り、そして後のアンコール王朝に通ずる古代インド型を脱した文明を生み出すことになった。カンボジア型古代文明はとりもなおさずクメール族型であり、巨大な聖池、寺院地区、王城という三点セットがこの時期初めて成立したこの時期、クメール民族の魂が溌溂として清新な息吹に包まれていたことが、その彫像に表れている。真のクメール族勃興期である。

*石澤良昭氏の説、その前身は初めに叙述した「「アンコール水利文明論」にある。

その代表的な彫像が、王都の寺院遺跡地区から出土したドゥルガー像である。誰が初めて見る時、はっとする神の像(別称:東洋のビーナス)である(写真②)。

②「ドゥルガー像」真臘時代、サンボープレイクック遺跡、7世紀前半。真臘の王都より出土。この像はその美しさから「東洋のビーナス」という愛称を持つ。豊かな乳房、少し身をそらしたプロポーションの良さ。その体形は現代のクメール女性の体形に通じる。もとは4臂(ひじ)を持ちーなら興福寺の阿修羅像に見られる4臂ー、いまにも歩き出そうとする姿で、薄い裳から肉感的な太腿が透けて見えてくるかのようで巧みな彫りである。ドゥルガー神は、シヴァの神妃で水牛の魔人マヒシャを撃ち殺す猛々しい神だが、ここでは光輝から生まれたドゥルガー神の美しさが象徴されている。それは、興福寺の天平の傑作と愛される阿修羅像の由来に似ている。阿修羅神は仏陀に歯向かう悪神であったが、後に仏陀に威厳に撃たれその守護神となった。興福寺の阿修羅像はその瑞々しい純粋な帰依の証である。

ここにクメール族の造形が高みに達した感がある。仰ぎ見るに軽やかに歩もうとする体躯のしなやかな美しさは、天上の美の極致に達せんするかのようでそれを人々は神に見たのであろう。そのしなやかさな美しさは、奈良・薬師寺金堂の三尊像の脇侍である日光、月光菩薩のS字形のしなやかさに通ずる。

アンコール王朝前半期

真臘からアンコール王朝初期のバンテアイスレイ寺院(別称「アンコールの宝石」)の破風彫刻その浮彫の深さ、巧みさ、動きのある姿態といい、神話の物語とは言え、写実性に満ちている。ここにクメール美術は頂点を迎えたと言っていい(写真③)。日本で言えば、白鴎・天平期(7世紀末-8世紀前半)の傑作仏像群の高みに匹敵する。クメール族も日本民族も美の頂点を極めた後、芸術性でそれを超えることができなかった。

③楼門の破風「ピーマとドゥルコーダナの戦闘」、バンテアイスレイ遺跡、10世紀末。博物館の部屋の仕切り口上部にあり、順路の正面上部に見えてくる。バンテアイスレイ寺院遺跡は「アンコールの宝石」という別称を持つ遺跡で、寺院の内陣部の祠堂群は精緻かつ華麗な浮き彫りに埋め尽くされている。後にドゴール内閣の大臣になったアンドレ・マルローが若き頃に「東洋のモナ・リザ」(別称)を持つ女神像を盗み出そうとして逮捕された事件でつとに知られている(その経緯は彼の作品「王道」に描かれている)。この破風彫刻はアンコール期の超1級作品で、動的で華麗な深い彫りを持つ浮彫で、叙事詩「マハーバーラタ」の一場面を緻密な構成で描いている。この破風両側の浮彫は怪魚マカラから吐き出された蛇神が楼門守護を務める構図となっている。

バンテアイスレイの手前にコーケー時代の争う猿神の大きな像がある。大胆な造形で躍動感があり、アンコール王朝期でも特異な造形感覚である(写真④)。

一時のアンコール・コーケー期

④「格闘するハヌマーン」アンコール・コーケー期、10世紀前半。格闘姿の像は大きく目立つ。コーケー様式の逸品である。猿神ハヌマーンは躍動感に溢れ、写実性を特徴としており、従来の威厳を突き破っている感がある。

このコーケー期はアンコール王家では傍系の者がアンコール地域北方のコーケー地域に拠って、王家乗っ取りを策した簒奪者の時代である。コーケーは簒奪者の王都で、中心寺院の から先にガルーダ像が出土し、寺院奥には巨大な階段状ピラミッドが造られ、頂上部には祠堂があった。その時代の特異な造形はコーケー様式と名付けられている。既にアンコールワット建立期には、造形美術はマンネリ化(均一化)に陥り始めていた。アンコールワットの壁面を飾るデバター像や第2回廊の壁面彫刻を見れば解る。造形部や技巧もバンテアイスレイの及ばない。王朝としては最盛期であっても、この時期の代表であるナーガに座す仏陀像を見るとそれがよく解る(写真⑤)。既にこの時期、クメール文化の国風化は完成し、均一化している。ならばアンコールワットは平安後期の文化、清新な革新性、躍動感を持ち込んだ鎌倉文化の造形はコーケー期として比較できる。

⑤ナーガ上の仏陀。アンコール期の中期、シソホン洞窟遺跡、12世紀前半。像はナーガ(蛇神)に座して瞑想する仏陀。この様式は11世紀から見られ、12世紀に数多く造られた。構図は仏陀説話に基づく。仏教は扶南時代からヒンドゥー今日の一部として古代インドから受容していたが、アンコール期には断絶があったようで仏陀の造形が独特なものになった。仏陀の顔を見れば、まさにクメールの顔になり、蛇神信仰がクメール族に大きなものになる。ナーガの意匠が多くアンコール期の遺跡で使われている。これは原始・古代からの水信仰と結びついたものであるようだ。(上述のグロリエの「水利文明論」を参照)

アンコール後期:ジャヴァルマン7世の時代

⑦ジャヤヴァルマン7世座像。12世紀末~13世紀初め。クオル・ロメオス遺跡。クオル・ロメオス遺跡はアンコール・トム北城門を出て右側にある円形に石垣だけが残る不思議な遺跡。ここで腕は失われているが、アンコール・トムのバイヨン期を代表するジャヤヴァルマン7世の全身像が見つかった。固く締まった体躯、瞑想する姿ながら秘めた強い意思が面割ってくる。壮年期の王の姿であるというが、理想化された姿、表情である。同じ顔の頭部だけの彫像もいくつか他で発見されている。バイヨン期の像で瞑想する顔の仏教、眼を見開いた顔はヒンドゥ教の尊像とされ、いずれも王の顔ににている。この王の時代、外目にはアンコール王朝最盛期と言われ、タイ中南部、ベトナム南部に領土を拡げ、べロナム中部海岸の都市国家連合のチャムを打ち負かした輝かしい時期とされ、この姿の模造品は現代のカンボジア各地に見られる。が、この王の死後、アンコール王朝は内紛を繰り返し急速に衰え、やがて滅亡する

現代のクメール人がナショナリズムの拠り所とするアンコール・トム、特にジャヴァルマン7世の時代になると領域こそ、クメール族の歴史上最大となるが、造形文化では、均一化、多量生産の時代である。石積み彫刻の巨大な観世音は国風化の極致であり退廃でもあった。巨大な寺院の造形と大乗仏教への偏りは、国力を疲弊させ、宮廷内で隠然とした勢力を持つヒンドゥーバラモン僧が反感を募らせていた。事実、王の死後、次の王の時代でヒンドゥー勢力と支配層が組む廃仏毀釈が起こる。アンコール王朝はタイのアユタヤに滅ぼされる以前、自ら瓦解していった。また、王の死後、大乗仏教がカンボジアの地に根づくことは2度となかった。それは大乗仏教の高尚な哲学は民衆には全く無縁な王家の信仰に過ぎなかった。王家、支配層の内紛とタイのアユタヤの勢力拡張なのか、南伝仏教は清貧な無名の僧たちによって民衆に浸み込んでいった。14世紀末のアンコール王朝の滅亡も王家や支配層、王家の奴隷身分であった歌舞団や職人集団の消滅であって圧倒的な農民にとってはほぼ無縁なことであった(アユタヤはアンコール王朝滅亡時に王家、近臣、舞踊団、職人たちアユタヤに約9万人を連行したという。その後のカンボジアの歴史は全く振るわない

そのことは、シェヴァルマン7世の時代の展示を見て、西洋の青銅フランキー砲の陳列や王家や宮廷の調度品を見れば解る。筆者は1999年、初めて博物館を訪れてそれらを見た時、愕然としたのを憶えている。率直言おう、王家とてタイ王家の2流品である。移動用馬車が飾られているが、タイ人からみれば、地方長官レベルのものであろう。調度品もタイ製のもの(金泥の焼き物)である。郷土資料館レベルの陳列になる。これほど如実にカンボジアの歩みを見せる博物館も稀であろう。クメール族の偉大さと零落、一民族のこの落差は、マヤ、アスティカ、インカに見るが如くである。

 

⑨「祈る像(木彫)」15~16世紀。アンコールワット奉納仏。木材を使用した素朴ではあるが味わい深い小像である。これは14世紀末、アンコール王朝滅亡後、カンボジアの地にはタイから僧たちによって南伝仏教(大乗仏教派はそれを侮蔑して小乗仏教と呼称したの像である。アンコールワットは15世紀にはカンボジアの地に残ったクメール族から忘れられ、16世紀半ばアンチャン1世王がアユタヤに勝利し、アンコールの地を取り戻し、アンコールワットを再発見する。その勝利記念がクメール山上のプリアントンの巨石上の涅槃仏という。王は、アンコールワットの増改築を行い、その後南伝仏教の聖地として多くの仏像が奉納された。17世紀前半の大航海時代には日本人森本右近太夫がアンコールワットを訪れ、ワット内の従事回廊の柱に落書を残している。そして大航海時代が終わる18世紀にはアンコール遺跡群は再びクメール族の民から忘れられていった。アンコールワットが再び脚光を浴びるのは、19世紀半ばののアンリ・ムオの旅行記によってである。

18世紀にはアンコールの巨大遺跡群は密林に埋もれ、猛獣の跋扈する世界であった。19世紀のウドンの王朝にアンコールにつながる痕跡は全くない。またクメール人自身がアンコールワットを巨人が造ったという伝説を語っていた。フランス人がやってきた初期の頃、「眼前のクメール人が、これほどの高みのある文明を造ったはずがない」と思っていた。事実、クメール人自身が忘れていた。碑の古クメール文字の解読によって、眼前のクメール人がアンコールの民の末裔であったことが解ったという。

現代の王につながるウドン王朝、そしてフランス統治下で使用された王の移動用の馬((牛?)車。タイ王朝なら地方長官レベルか?

現代のワットプノンの階段や本堂内部の電飾背景の仏像、摩訶不思議な奇怪な像たち、現代クメール人たちにとって仏教は先ず「僧」なのであり、寺院はお飾りに過ぎない。寺院は僧房が先ず建てられ、本堂は一番最後でいいのだ。それは現代都市のネオンに憧れる感覚で、それと彼らの心にある信仰とは矛盾しないのだ。宗教にとって大切なのは魂の安寧と救いだからである。クメール族は偉大なアンコール文明の末裔であり、15世紀以来の民族の覚醒期なのである。真の復興には長い道のりである。

ここ国立博物館は人の高みへの憧れの強さと歴史の非情さをまざまざと見せてくれる場所である。

王宮中庭 中央の建物にはアンコール・トム内の王宮跡の癩王のテラスにあった癩王(伝説)の像が鎮座している。遺跡上の像はレプリカsである。

国立博物館の見学

先ずは鑑賞に当たって、次の点にご注意ください。

・各展示品のプレートは名前、発見場所、制作世紀のみ記載で具体的開設ありません(これらは英語表記)です。館内で「カンボジア博物館代表作品」(日本語カタログ)が売っています。頒価15$です。

・日本語の旅のガイドブックには「一様に日本語陰性ガイドかガイドを頼むのがよい。」と書いてあるが筆者は余り進めたくない。また、国立博物館敷地内での伝統舞踊ショー「プラエ・パカエ」が助演されており、民間団体の「カンボジアン・リビング・アーツ」による伝統舞踊を中心としたオリジナルショーとある。「アプサラ・ダンスや仮面舞踏といった古典芸能から各地に伝わる民俗芸能まで、伝統にオリジナル要素を組み合わせた内容」とあるが、ユネスコが認めた文化遺産は牛の皮を彫った「リムケー」や「ラーマヤナー」の古代インド伝来の神話物語の影絵(スバエク)だけであり、同じものはタイにも残っており、パイリンの民間芸能「孔雀の踊り」はミャンマーにも残っている。

国立博物館 の舞踊

鑑賞に当たっては、入口玄関正面のガルーダ像に向かって左に入るのが順路です。一通り回って鑑賞すれば、自ずとカンボジアの地の歴史(B.D.2世紀~20世紀)の優品を見ることになる。が、この手の鑑賞の手引きには他のWebサイトに唯一秀逸な模式地図付きの鑑賞手引き(下の画像)を見たほうがよく解る。現在まで日本語では一度「世界の博物館シリーズ」(朝日新聞社発行、絶版)でカンボジア国立博物館の一般向け以外にこのWebサイト以外の案内以上のものは見当たらない。今はネットの時代、タブレット等で開きながら鑑賞するのが最善に方法である。

New Asia No.7. P023-024 Museum Map

下記の方法でご確認ください。

① New Sai Travel Co,,Lyd (Discober New Asia

New Sai Travel Co., Ltd.

② 上記で開いたサイト右上のボタン(下の画像)クリック。

D.N.A magagin

③ 同社発行の雑誌の表紙画像から下に画像をクリック。

④ discover New Asia No.7の内容が電子書籍のように出て読めます。雑誌の>をクリックすると3つ目に下の画像が見開くで出てきます。最大画面にして、ズーム機能でご利用ください。

◇ 博物館の入場

・鑑賞時間:9:00~17:00(原則:無休)

・チケット料金:大人一人10$」、10~17歳一人5$、9歳以下無料。

・その他:館内は入口正面のガルーダ像以外の撮影は禁止。

ガルーダ像と屋外はカメラ1$、ビデオ動画3$で撮影可能。

◇ 国立博物館の位置

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