終身刑囚のキュー・サムファン、回想録のためにコンピュータ使用許可を請求

ポルポト派国際法廷で終身刑が確定し、投獄されている元クメール・ルージュ国家元首キュー・サムファンは弁護士を通じて、内務省に対し、彼の人生の物語を書き終えるためのコンピューターの使用を許可するよう要請したという。

同弁護士サム・オン氏は、キュー・サムファンが収監された初日以来、刑務所職員に対し、依頼人が自身のコンピュータにアクセスする許可を繰り返し求めてきたという。しかし、刑務所当局からは何の返答も得られていない。その結果、彼は再び内務省に要請を提出することに決めたとのことである。

「サムファンの本は自伝的で、クメール・ルージュ政権について詳しく説明しています。この本は指導者としての彼の役割に焦点を当てており、パリ和平協定についても説明しています」と弁護士は述べた。

「この本は彼にとって本当に大切なもので、彼は役人にコンピューターを使って読み終え​​ることを許可するよう求めています」とサム・オンさんは語った。

同氏はさらに、「サムファン氏は他の人に影響を与える可能性のあることについては何も述べていない。この本では彼の人生についてのみ語られています。」「サムファンは高齢で健康状態も悪いと強調した。同氏は、この本が刑務所での生涯を終える前に書ける最後の日記になるかもしれない」と語っている。

キュー・サムファンの弁護士コン・サム・オンは、カンボジア裁判所特別法廷最高裁判所(ECCC)が終身刑を宣告した後、サムファンのコンピュータは刑務所職員によって押収され、カンダル州刑務所に収監されたと述べた。

久方に亡霊のように登場した虐殺政権ポル・ポト派幹部の最後の生き残りキュー・サムハンであるが、2003年12月、公開文書で、民主カンボジア政権下での残虐行為の存在を認めたが、これは1975年から79年までの200万人近くの人民への犯罪行為の責任を認めたものではないとし、自分の責任を否定しているこの主張は国際法廷でも変わっていない

*キュー・サムファン(クメール語: ខៀវ សំផន / Khieu Samphan, 1931年7月27日 ~ )は、カンボジアの政治家。カンプチア共産党中央委員。カンボジア内戦期に王国民族連合政府の副首相兼国防相、民主カンプチア政権(ポル・ポト政権)で国家幹部会議長(国家元首)を歴任。政権崩壊後はタイ国境地帯を拠点とする反ベトナム三派連合政府外務担当副大統領に就任した。2023年現在、ポル・ポト派幹部の唯一の生き残りである。

ポル・ポト政権の時代、1975 年 4 月 17 日から 1979 年 1 月 6 日まで、クメール ルージュ(赤いクメール共産党)として一般に知られるカンプチア共産党 (CPK) がカンボジアを統治しました。政権は20世紀で最悪の行き過ぎを行い、その間に推定170万人~200万人のカンボジア人が死亡したという。カンボジア全土がキリングフィールド(殺戮地帯)であった。

1991年10月23日、パリ国際会議が開催され、サムファンはポルポト派代表として同派ソン・センと共に「包括和平協定」に署名した。1991年11月27日、キュー・サムファンはバンコクからカンボジアに帰国した。しかし、サムファンの乗った飛行機がポチェントン国際空港に着陸した途端、罵倒し傷付けようとする群衆に遭遇した。サムファンが市内に出ると、別の群衆が事務所に向かう道筋に並び、車に物を投げ付けた。事務所に到着すると彼はすぐに事務所に入り、直ちに中国政府に救援要請の電話を掛けた。それから間もなく、怒る暴徒は建物内に殺到し、サムファンを追い求め、天井のファンに吊し上げようとした。結局キュー・サムファンは顔を血まみれにして梯子から脱出でき、直ぐにポチェントン空港に向かい、そこからカンボジアを脱出した。暴動はプノンペン政権(ヘンサムリン政権:現カンボジア人民党政権)により抑え込まれた。その後、ポルポト派は選挙をボイコットし、武装闘争を継続した為に非合法化された。1997年6月12日、ポル・ポトの指示によってソン・セン粛清(ソン・セン一族を皆殺しにした)し、それに怒ったタ・モク(ポル・ポト派軍司令官、人々はアーモック:悪魔のモックと言っていた)らが反乱を起こすと、ポル・ポトと共にジャングルに逃走したが追い詰められ、6月18日にタ―モックらに投降した。その後、ポル・ポトは病死(ショック死)とも、口封じの殺害死ともいう謎の死を遂げ、ただちに遺体は焼却された。1998年12月にキュー・サムハンはポルポト派No.2のヌオン・チアと共に政府(フン・セン政権)に投降した。

 

特別法廷(国際法廷)でのキュー・サムファン(2009年7月3日撮影) Wikipedia

2007年11月19日、カンボジア特別法廷(国連主導の国際法廷)により「戦争犯罪」および「人道に対する罪」で訴追され、2022年9月22日に終身刑が確定し、一連の裁判は終結した。ー以上、Wikipediaの記述を参考に要約ー

掲載写真:Wikipedia 、Khmer Times

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