カンボジアは5月20日(土)、「National Day of Remembrance(国民記憶の日)」を祝日としている。この日をKhmer Times等は「建国記念日」や「国家追悼の日」と称している。正確には国家の主権者は国民であるから、本来は英文を訳せば「国民の記憶の日」となるだろう。現カンボジア政府はポルポト政権時代に第2次世界大戦後の最大の虐殺が行われたカンボジアから解放したのがベトナムの支援を受けた人民党であり、新たな国が建国されたのだ、という意味に取りたいのであろう。それがKhmer Timrsで「建国記念日」と報じているのである。
ともあれ、第2次世界大戦後最大の虐殺地、5月20日は「国民記憶の日」、それも「同胞による同胞殺し」という歴史的事実を忘れず、5月20日は追悼する日である。ポルポト政権による同胞殺しは当時の支援国:中国の周恩来首相さえ、苦言を呈したものであるほどに悲惨な事実である。間接的にポルポト派政権の虐殺責任はベトナム憎しで支援した中国、また間接的に中国と結んでベトナムに敵対した米国に大きな責任があるのは明らかである。事実、ポルポト派国際法廷で被告のポルポト派政権のNo.2は、「俺たちだけが裁かれるが、中国や米国に責任があろう」と自己弁護している。
この全土が虐殺の地と言われたカンボジアであるが、同胞によって無残な死を遂げたカンボジア人自身が内部に抱える痛苦の記憶であるのは間違いない。今なお虐殺者とその家族、虐殺された者とその家族が全国の村々で同居しており、互いに触れぬように暮らしている。国家がその意を汲みつつ、この日をNational Day of Remembrance(国民記憶の日)として、亡くならnれた人々に追悼を捧げる日とするのは、悪夢からの解放という意味で正しい。
フン・セン首相は、民政の名のもとに「平静」(それぞれが静かに追悼すること)を呼び掛けた。カンボジア政府は5月20日を、1975年4月17日から1979年1月6日までの民主カンプチア(ポルポト派政権)の残忍な政策での人々の苦しみを思い出す日としてこの日を設定している。
フン・セン首相は一昨日(20日)、公式Facebookにメッセージを投稿し、「将来、同様の悲劇が繰り返されるのを防ぐために、人々は平和を維持するために積極的に協力しなければならないと訴えた。より豊かな社会を築く機会をすべての人に与えることができるのは平和だけだ」と述べた。
同氏は、「カンボジア人は現代世界で最も虐殺的な政権の一つとして悪名高いクメール・ルージュ(赤いクメール)を決して忘れないだろう」と付け加え、「ポル・ポト政権である民主カンプチア政権は、カンボジア文明の歴史の中で最も暗い日々となった。5月20日は亡くなった300万人以上の犠牲者の魂を追悼する日である」とも述べている。
さらに、フン・セン首相は、「カンボジア人の大多数がクメール・ルージュの悲劇を理解していると語った。人々は戦争の破壊的な炎と残酷な虐殺の涙を生き延びました。政権の生き残りは、強制立ち退き、家庭生活の崩壊、重労働による市民社会の荒廃に耐えた。クメール・ルージュ政権時代にカンボジア人は薬もなく、十分な食料もなく、自由もなく、民主主義もなく、生きる権利を残酷に奪われて亡くなった」とメッセージを続けている。ポルポト派政権は、社会主義中国農村モデルを過激化した政策(ポルポト派指導部、その大部分はフランス留学生あがり、頭でっかちで農村生活を体験していなかった)で国民を酷使、虐殺を続ける一方、国民の反感の高まりを怖れ、仲間内の「裏切者」探しを始めた。プノンペンのトゥールスレン刑務所(現虐殺博物館。以前はリセ:フランス式教育制度の中高一貫教育学校を転用)に収容され、拷問・虐殺された人々は現人民党の前身カンボジア共産党員たちであった。
当時を知る人々で現オルセイマーケット内に召喚された人だが、その中の床は血のりだらけであったと証言している。フンセン首相自身、クメールルージュ(ポルポト派)の東部軍管区に所属し、ポルポト政権中枢から「裏切者集団」として粛清対象であった。そのため、前首相ヘン・サムリン氏らと共にフン・セン氏もベトナムへ逃げた。そしてベトナムの支援を受けた現人民党の幹部がカンボジアにベトナム軍とともにプノンペンを解放し、ポルポト政権は瓦解した。その時、中国大使は裸足で命からがらポルポト政権幹部と逃亡を共にし、タイ国境に逃れるという屈辱を味わったという。
5 月 20 日の国家追悼日は、「すべての人々が共に構築し共有する、平和で解放された安全な社会の基本的人権を祝う日である」とKhmer Timesはこの日(追悼日)の記事を結ぶが、まさにこれは全てのカンボジア国民にそうあって欲しいという願いであろう。
掲載写真:追悼の日 首相のフェイスブックより Khmer Timrs