「とっておきの」という題には語弊がる。ここで紹介する場所、内容とかけ離れているが、「特別な」と解してくだされ幸いです。
ここを訪ね、案内するのは気が重い。だが、プノンペンを訪問したら一度は訪ねなければ、カンボジアを総体として知ったことにはならない。筆者は何度か知人、友人を案内して訪れている。だが、3度目以上になると入口の近くのカフェで待っていることにしている。2度目の客人も「じゃ、俺も」と一緒にカフェに入った。
さて、トゥールスレン収容所(ポルポト政権:1975-79年は、S21Aと呼称)跡だが、筆者はこの近辺に数年住んだことがある。そこはプノンペンの都心の一部にあり、周囲は住宅街で其処かしこに店舗もあるのだが、一度たりとも幽霊が出たという話を聞くことはなかった。いずれも訳の解からぬうちに殴られ、昨日まで革命や建国の理想に燃えていた者が拷問の末、無造作に家族もろとも殺された2万人以上*、苦悶の想いを残した人がほとんどであろう。が、ここでは幽霊が出たという話を全く聞かなかった。真の残虐や苦痛は余りに想像を超えた事実のために白骨以外何も残さなかったかのようである。ここでは想像力さえ、無力であり、元々夢のように誰もにも存在しなかったかのようだ。
クメール人であれ、外国人であれここを訪れる者の多くは、出口に着く時には押し黙り、そして眼前の日常に眼をしばたかせる。
*下の記述を参考。ポルポト派の殺戮はこの収容所と資料だけが証拠として残った。他は骨以外、生き残った者の証言のみである。
さてこのトゥースレン収容所だが、その前身はフランス式の教育制度を取り入れたリセ(公立学校 中高一貫校)であった。学校は少数者が多数者を監督するという意味で建てられているから収容所(刑務所)への転換には便利な建物である。周囲の壁に有刺鉄線を張り巡らし、電流を通す、収容者に足かせを付ければとりあえず住む。ポルポト政権時代の政治犯収容所である。この収容所が生々しい形で残されたのには理由がある。ベトナム軍の再侵攻でわずか1週間ほどでプノンペンにいたポルポト派幹部は鉄路で西部へ逃げ延びた。その慌ただしさのなかで中国大使は彼らと同行するたびに裸足で逃げたという屈辱を味わっている。大国の中国の大使のこの場面は、当時中国と対立していたベトナムによって喧伝され、中国外交の一大恥辱であった。
ポルポト政権が崩壊する寸前、当時王宮の宮殿に軟禁されていた国王シハヌーク殿下は、ポルポトに呼び出しを受けた。車に乗せられてポルポトとの会談に向かう途中、殿下は死を覚悟したという(回想録)。殿下が連れていかれたのは今も現存する迎賓館、出迎えたポルポトが慇懃に王室言葉を使って敬意を示す姿に「どうやら殺されないで済みそうだ」と思った言う。ポルポトとの会談内容は、「ベトナムのカンボジア侵略を非難するため国連に出席してほしい」という要望だった。それ以前、残忍なポルポト政権が殿下を殺さなかったのは当時の中国の周恩来の強い説得があったからだという。事実、ポルポト派幹部は殿下に強い反感を抱いていたが、政権崩壊時には殿下は駒として使えると判断し、早速幹部たちよりも先にタイ国境に向けて殿下とモニック王妃、2人の子どもを乗せた車は走り出した。その後、殿下はニューヨークの国連本部でベトナム非難の演説しながら、深夜密かに宿泊ホテルを抜け出て米国政府に亡命を求めたというエピソードがある。ところが案に反して米国政府は殿下に戻るように説得した。当時米国は、ベトナムでの敗退(米国は正式敗退と認めてはいない)で統一ベトナムとそれを支援するソビエトと対立しており、さらに米中提携を考慮していた(キッシンジャー外交)。そのためには殿下はアメリカにとっても駒であった。
ポルポト政権の慌ただしい瓦解は幹部たちの家族やポルポト派にとっても寝耳に水、ちょうどその時期は乾季で河川を堰き止め川魚が手掴みでわんさか取れ、それも稀な豊漁の時期であったという。「こんなに魚があるのに、何で逃げるの?」と家族たちは不平を口にしていたという。プノンペンの無人と化した街に入ったベトナム兵士たちは異臭に気づいた。そこがトゥースレン収容所であった。拷問部屋には足かせ、手かせの遺体が鉄のベットに腐乱したまま残されていた。後にポルポト派国際法廷に出てきたこの収容所所長ドッチを始め、看守たちも慌てて逃亡するために拷問や自白の証拠隠滅もできなかったという。そのため、収容、拷問、虐殺の膨大な証拠品が残った。ベトナムにとっては「自分たちは侵略ではなくカンボジアの民を中国が支援する残忍なポルポト政権から解放するために来た」という大義名分の恰好な宣伝材料になった。
当初、ベトナムの言い分をソ連・べトナムのプロパガンダ(宣伝工作)として米中をはじめとする多くの国は殊更無視した。ベトナムの言う分以上のことがポルポト派支配地や政権下で起こっていたらしいということが、世界の人々に漏れてきたのは1980年代後半であった。そしてベトナム自体がプノンペンを解放するまで、ポリポト派の残虐な手口の挑発にじっと耐えてきたのだ、ということも解って来た。ベトナム軍の侵入もポルポト派幹部の猜疑心、被害妄想からくる誇大妄想がきっかけだった。今でもカンボジア国境に接するべトナム・アンザン省にはポルポト派の虐殺地が各地に残っている(1975ー77年)。国境沿いの多くの集落が襲われ、100人以上の住民のうち生き残ったは森に洞窟に隠れた数人のみという集落がいくつもある。女、子どもまで容赦なく暴行、虐殺、死体損壊である。襲われた集落の住民はポリポト派と同じ同胞であるクメール系ベトナム人(カンプチアクロム)であった。彼らはベトナムに魂を売ったカンボジア人という理由で殺された。最初から殺戮が目的であった。ベトナムは当初、こうした事実を公式には認めず、外交交渉で解決する姿勢を崩さなかった。それは、北に中越戦争の脅威があったからである。これはポルポト政権側はベトナムの弱さとみて、さらに襲撃を繰り返した。ポるポトはこう鼓舞した。「ベトナムは人口は多いが弱い。カンボジア人一人がベトナム人五人を殺せば勝てる!」と。1977年末、中越戦争に勝利したベトナムは遂に反撃に出た。すると、カンボジア東部戦線は大混乱、2週間でプノンペン近郊までベトナム軍が迫った。が、彼らは引き上げた。するとポルポ政権は勝利と喧伝し、当初負けたのは東部軍管区に裏切り者がいたからだ、と内部の粛清に向かう。
既にそれ以前、プノンペン陥落で生まれたポルポト政権は早速、投稿した前政権の軍人、役人、知識人の抹殺を手始めに全土で民衆レベルまで虐殺を勧めながら強制労働と家族の解体を軸に造りを初めていた。それは中国の人民動員戦術を模倣しながら模倣を超えてさらに残忍な手口と政策の錯誤を強行し、カンボジア歴史上初めて飢えを発生させた。全土に眼に見えぬが不満と不平が鬱積し、杜撰な工事で決壊する貯水池が崩れたり、ポルポト自身が危機意識に包まれた。そうしたことが虐殺を一層激化させたという。「我々の政策の危機は、政策の誤りではなく外国と結託した反革命に毒されたカンボジア人たちの抵抗とサボタージュにある。」という論理である。政策的欠陥を補うためのベトナムとの小競り合い(事実は無防備・無抵抗な集落の襲撃)であった。これ以後、国内での虐殺の対象は拡大する。初めは旧政府関係者や知識人、教員や都市住民、そして飢えで不満を漏らす農民だったが、第1回のベトナム軍侵攻(1977年)以後、反革命はポルポト派内に向けられた。とくにベトナム国境沿いの東部各州のポルポト派地方軍幹部や部下、住民たち、つまり粛清の対象となった。その粛清を逃れてベトナムに逃げたのが、現首相やヘンサムリン、チアシンといった現人民党の長老たち(彼らや彼らの部下たち)である。この時期、トゥールスレン収容所に東部から次々とポルポト派であった人々が送られ、満杯状態となった。実は、収容所で拷問され、殺された大部分はポルポト派に忠実な人々であった。
さらに東部の住民は西南部に強制移住させられた。その東部に南西部軍司令官で悪名高いタ・モック(モックお爺さんという敬称。人々はア・モック:悪魔のモックの意味で恐れたという)が東部に進駐した。彼の軍隊は少年兵と先住民からなる兵士が多かった。さらなる根こそぎの殺戮が始まった。
1998ー2000年と筆者がカンボジアを旅した頃、肌で感じたことがある。村々で50歳以上の男性に会うことがほとんどない。どこで生まれたの?と聞くと遠い州の名を上げる。そして村によって鎖や紐で足をつながれたお婆さんの姿を眼にした。聞けば精神疾患だという。「ああ、これほどに」と暗澹とした気持ちなったことを憶えている。
トゥールスレンにキリングフィールドという観光コースがあるが、事実はこのコースを辿るの外国人のみでカンボジア人はほとんどいない。無理もない。トゥールスレンの囚人は革命の理想を信じた人もたくさんいた。キリングフィールドは収容所専用の処刑、埋め地である。実際はカンボジア全土がキリングフィールドであった。かつてトゥースレン収容所の展示あった頭蓋骨で埋められたカンボジアの地図(後に死者への冒涜と非難され撤去)があった。あれが真実であった。
推定200万人余の殺戮、当時の5人に1人以上が訳も分からず殺されたのだ。キリングフィールドの場所は全国到るところにある、ただガイドブックに載らないだけである。そして今も虐殺者と虐殺されて家族を持つ者が同じ集落に暮らしている。
トゥールスレン収容所(正式名トゥールスレン虐殺博物館)
ポルポト政権指導部によるポルポト派内の粛清のために設けられた施設。収容されたものは外国勢力につながった、或いは指導部に不平・不満を持った、反革命者という容疑をかけられた者たちとその家族が尋問、拷問、そして処刑のための施設であった。処刑場所は後述のキリングフィールド(殺戮地帯)と呼ばれた場所である。
元リセ(公立の中高学校)の校舎と敷地を利用。4棟の建物がある。入口から左手(南側)の校舎A棟は拷問部屋(ここには鉄製のベット、発見時は遺体が拘束された状態で残っていた。今はその時の写真が部屋内に掲示。)次に西正面の校舎B棟、収容された人々の記録写真の掲示。右手の次の3階校舎C棟、1.2階の教室をレンガで仕切った独房。手足を鉄かせで拘束。3階は集団雑居房。横鉄棒に鉄かせで手や足を拘束。北側の校舎D棟、拷問道具、拘束道具やその方法の絵などの資料。地図も掲示され、ポルポト政権時代に大規模な集団強制移住が行われたことがわかる。こうして村の共同性、家族の解体、強制結婚が行われ、カンボジア人の大多数が個としてアノミー状態(無機質な散乱、浮遊状態)となり抵抗すらできない状態がつくられた。
この収容所はポルポト派(元クメール・ルージュ=カンボジア共産党内でポルポトグループが権力奪取し、内戦期に次々と古参党員や知識層党員は粛清ー死か逃亡ーされた)がプノンペン占領後に設けた。
こうしたクメールージュの変質を知らない報道写真家:一ノ瀬泰三はスクープを狙ってクメールルージュ支配領域に潜入して1度捕まるが釈放されるが、2度目の潜入で捕まり、1か月ほど生存していたらしいが処刑された。同様に何人もの外国人が第1次内戦戦末期に殺害されている。末期プノンペンに向けて国道2号線(現カンダル州)上で乗っていたジープが銃撃されて報道写真家:沢田教一も殺された。
なお、収容所には残った記録から約2万人*、生き残ったのは7人。中でも美術の才能があった者はポルポトの胸像造りために殺されなかったという。その胸像がD棟に展示されている。また展示されている収容所の実態を描いたのもベトナム軍の解放後に彼が描いたものである。膨大な記録(写真、文書)は、容疑者たちの反革命立証のためのものである。個々人の写真はいずれも正面に正対している。それはご丁寧にも正対するように写真用椅子が造られていた(展示されている)。忘れがたいのは、赤ん坊を抱いた若い婦人(外務省次官の妻という)、眼の周りに殴られた跡が残る顔を正対するよう命じられながら、ようやく歪んだ表情を向ける若い娘さん。膨大な文書の大半は拷問後の自白資料、その内容たるや荒唐無稽な作文(現地の日本語雑誌にそのごく一部が連載翻訳されていたが中断。その内容に拷問側の意図分析や心理を読み取るのは優れた忍耐ある研究者の仕事ときづいたのか、アホらしくなったのか。)党内の粛清だからこそ膨大な記録を作った律義さが異常さを際立たせている。後に国連のポリポト派国際法廷に出席した被告人:元収容所所長ドッチ(本名:カン・ケク・イウ )*自身、自らが生き延びるのに必死で、そのためのアリバイ工作:上層部に送る自白書だったのでは、とさえとも思える。
*処刑された者の中には米国人もいた。1975年5月のマヤグエース号事件救出作戦で捕えられたアメリカ海兵隊員3名もトゥースレン収容所に送られ、尋問を受けた記録が残されている(その後彼らは処刑されたと思われる)。ーWikipediaの記述参照ー
ー見学ー
・8:00~17:00。・無休
・入場料:外国人大人一人5$、10~18歳一人3$、10歳未満は連れて行かないほうがよい、ということであろう。
・日本語音声ガイド:3$。
・場所
キリングフィールド
キリングフィールド。プノンペン都中心部から南南西15㌔、周囲を湖沼や湿地帯に囲まれた微高地にある。主に上記のトゥールスレン収容所のための処刑場である。発掘された遺骨は8985柱、遺体が捨てられた場所はいくつもの矩形の窪地になっている。入口近くに供養塔があり、ガラスケースに遺体の頭蓋骨が納めれらている。音声ガイドも利用できる。
こうしたキリングフィールドは確認されただけでも全国に300か所以上だが、実に虚しい数字である。すこしでもクメール語を学び、生き残ったカンボジア人の心に入っていけば人の数ほどのキリングフィールドが全土に拡がっていく。だが、生き残った多くの人々の大部分は誰にも尋ねられず、また聞かれないうちに死に絶えてゆく。
見学
・時間:7:30~17:30 ・無休
・日本語音声ガイド(無料)
・見学料金:
・場所